『涙のキスもう一度 誰よりも愛してる』



イヤホンから響く歌声。
ボリュームを普段よりも幾分上げているにも関わらず、その歌声は俺の中に響いて来なかった。
バスのエンジン音のせいもあるのだろうが、それは要因の一部に過ぎない。
俺の頭の中を占領しているのは、たった一人の女性。
いや、正確に言うならばその女性と過ごした日々の思い出だけが頭の中を渦巻いている。
もう二度と味わえないあの幸せな日々を―――――

「ふぅ……」

バスの窓から外をなんとはなしに眺める。
見えるのは静かな波が打ち寄せる砂浜と海、それに遥かに続く水平線だけ。
夏の風景としては全く平凡な景色だ。
それこそ、日本中海辺にさえ行けばどこででも見られそうな景色である。
けど、そんな当たり前の景色ですら今の俺には苦痛だった。
俺の記憶の中の夏には、彼女がいない景色なんか無かったから……。



今でも彼女の最後の言葉が耳に染み付いている。
太陽が沈みかけ、既に空も薄暗くなってきていた海岸で、僅かに顔を俯かせながら彼女が口に出した別離れ(わかれ)の台詞。

(さよなら……佐山くん)

『佐山』、と。
彼女は確かにそう呼んだ。
いつも呼んでいた『聖司』という名前ではなく、苗字で『佐山』と。
別離れの言葉自体には何も感じなかった。
ただ、俺のことを苗字で呼んだ事が……『佐山』と呼ばれた事がショックだった。
別離れの言葉そのものよりも、その苗字で呼ばれた事で、俺は「終わり」を感じた。
本当に、もう昔のような関係には戻れないと言う事に……。



「……あ……」

突然辺りが暗くなる。
一瞬何事かと思ったが、窓の向こうに一定間隔で橙色の光が過ぎていくのを見ると、どうやらトンネルに入っただけらしい。
そんな事にすら気付かないとは我ながら情けないと言うかなんと言うか……

「全く、お笑いだな……」

周りの乗客に聞こえない位小さな声で、自虐的な言葉を呟く。
振られた事は明らかであるというのに、こうして未だに心に整理がついていない。
たった一つだけ認めれば済む問題であるにも関わらず、未だに俺の頭はそれを受け容れようとしてくれない。
いや、頭は受け容れているのだろう。
ならば、どこがその解答を拒否しているのか?
答えは一つだけ―――――心だ。



彼女の事が好きで。
誰よりも愛しくて堪らなくて。
折れそうな位細い体を抱き締めたいという欲求がまだ胸に溢れていて。
柔らかく優しいキスをまた交わしたいという願望がこぼれそうで。
そんな俺の心が未だに『それ』を認めることを拒否している。



だからと言って、いつまでも思い出を引き摺っている訳にも行かない。
思い出に振り回される生活はもう沢山だった。

【次は〜山頂公園前〜、山頂公園前〜。お降りになるお客様は手近のブザーでお知らせ下さい】

と、長い間走り続けていたバスが、ようやく次の停車駅を教えてくれた。

……降りるか。

ずっと流していたCDプレーヤーの停止ボタンを押して、俺は頭の脇にあったブザーを押した。

【はい、次停車いたします】



「……着いた」

バスを降りてから約10分。
辿り着いた場所は、海を一望できる高台だった。

「俺とアイツは、ここから始まったんだよな……」

眼下に広がる海を眺めながら、俺はアイツとの始まりを思い出した。

(ねぇ、聖司)
(ん?なんだ?)
(ずっと一緒に居たい人、って居る?)
(はぁ? いや、考えた事もないけど)
(そっかぁ……)
(そういうお前は居るのか? ずっと一緒に居たい奴って)
(うん、いるよ)

(……あたしの目の前に)

確か、陽は既に傾き始めていた頃だったと思う。
2人でいつものように帰り際にこの高台に寄り道した時のひとコマ。
それが、今はずいぶんと昔の事のように思えた。

俺は思い切り息を吸った。
俺自身の心に決着をつけるべく、儀式を始める為に。






『涙のキスもう一度 誰よりも愛してる』
『最後のキスもう一度だけでも 君の為に贈る』
『振られたつもりで生きていくには 駄目になりそうな程悲しみが消えない』
『涙のキスもう一度 誰よりも愛してる』
『さよならは言葉に出来ない これは夏のさだめ』
『涙のキス 誰よりも愛してる』
『最後のキスもう一度だけでも 君を抱いていたい』






歌う間瞑っていた目を見開く。
俺が大好きな歌で、アイツも大好きだった歌。
そして、今のアイツと俺……特に俺の状態を如実に表している歌。
これが俺にとっての別離れの儀式。
アイツとの、本当の意味での終わり……。

「さよなら……真紀」

今まで口に出せなかったその名前と別離れの言葉を、俺はようやく口に出せた。



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