とある雨降る日曜の昼間。僕は女子寮の笹瀬川さんの部屋にお邪魔していた。 同室の小毬さんは朝から老人ホームのボランティアへ行っててここには居ない。いつもなら遊びに誘ってくる真人も、マッスルエクササイザーサードの材料を集めると言って出かけてしまった(一緒に行こうとしつこく誘われたけど丁重に辞退した)。僕が女子寮に来てると知ったら目を輝かせて弄ってきそうな来ヶ谷さんや葉留佳さんも、今日は用事があるとかで姿を見せない。他のリトルバスターズのメンバーもどうやらそれぞれ予定があったらしく、一人でどうしようかと悩んでいたところに笹瀬川さんからお誘いのメールを受けたのだ。 「でも僕はともかく、笹瀬川さんが暇を持て余してるだなんて珍しいね。ソフトボール部は?」 「今日は雨ですもの。体育館は他の部が使ってますし、ミーティングで話すような事も無かったからそのまま中止ですわ」 「ふーん」 相槌を返して意識を外に向けてみる。聞こえてくる雨音は大きくもなく小さくもなく一定のリズムで窓を叩いている。このまま目を閉じてしまえばあっさりと眠りに落ちてしまいそうで、しかしそんな魅力的な誘惑を僕は即座に捨て去った。せっかく笹瀬川さんと二人きりなのに、眠ってしまうなんてもったいない。 視線を笹瀬川さんの方に戻すと、彼女はガラステーブルの上に広げたノートに何か書いている最中だった。宿題か、あるいは部活のメニューか何かだろうか。 なんとはなしに、シャーペンを動かし続けるその手つきを見つめてみる。と、その視線に気が付いたのか、笹瀬川さんが怪訝な顔をして聞いてきた。 「なんですの、人の事をじっと見て」 「いや、別に大した事じゃないんだけど……」 言いよどむ。けれども彼女はそれで許してくれるつもりは無いらしく、首をかしげて「それで?」と無言で続きを催促してきた。 だから言った。 「笹瀬川さんって綺麗な手してるなって」 「なあっ!?」 僕の言葉に、笹瀬川さんは思いっきりのけぞった。さらに自分の手を胸の前で合わせ、僕の視線から隠すように背中をこちらに向けてしまう。その上ジト目で 「あなた……もしかして手フェチですの?」 「いやいやいや」 手を振って否定。それで姿勢は元に戻ったが、今だ目だけは半信半疑のままノートへの書き込みを再開する笹瀬川さん。あ、ちょっとヘコむ。 再び静かになる室内。咎められたわけでもないので僕はそのまま笹瀬川さんの手の動きを追っていた。 「…………」 「…………」 「…………」 「……、……」 「…………」 「…………ぅぅ」 「……?」 「………………うああーっ! もうっ、集中できませんわ!」 「うわっ」 いきなり笹瀬川さんがキレた。まあ考えてみれば当たり前か。僕だってノートを取ってる横でずっと見つめられていたら気になって仕方ない。 彼女はバンッ、とテーブルを叩き、その勢いのまま立ち上がってこちらにやって来た。その顔は真っ赤で、怒らせてしまったかと少し後悔するがまさに後の祭り。僕の目の前に座った笹瀬川さんは思いっきり腕を振り上げ、 「うわっ、ごめ、ん?」 そのまま両手を僕に突き出したポーズで制止した。どういう意味か分からず固まる僕に、彼女は顔をさらに赤くしながら言った。 「ほ、ほら、そんなに気になるのでしたら、思う存分触ってみればよろしいですわ!」 「え……? あ、いや、でも……」 「早くなさいませ!」 「う、うん。……ありがとう?」 自分でもよく分からないまま、彼女の言葉に押されてその手を握ってみる。顔と同じく赤く染まり始めたその手は、温かくて柔らかかった。とてもソフトボール部のエースを務めているとは思えないほどそれは「女の子の手」で、触っている内にどんどんドキドキしてくる。 「ど、どうですの?」 「うん……やっぱり、凄く綺麗だ……」 「そ、そう……それはなによりで、ひゃんっ、あ、余り強く握らないでくださいます?」 「ご、ごめん!」 そう言いつつも離す気はさらさら起こらない。何をやってるんだろう、と自分でも思うけれど、そんな事はどうでもよくなるくらい僕は笹瀬川さんの手に夢中だった。そんな僕を見て先に落ち着いたのか、笹瀬川さんがまたジト目になって聞いてくる。 「あなた……本当に手フェチじゃありませんわよね?」 「いやいや、だから違うって。……ただ」 「ただ?」 頭で考えるより先に言葉がこぼれそうになり、それで初めて気がついた。ああそうだ、僕は、 「あの世界でクロと遊んでた時の笹瀬川さんの手がさ、凄く優しかったから」 「あ……」 ビクリとこわばる笹瀬川さんの手を離さないようにぎゅっと握る。きっと笹瀬川さんにとっては未だ癒えぬ傷痕。それは今の反応で十分に知れる。 「ごめん、変な事言って。でも……」 言わずにはいられなかった。あの時、世界の終わり際にクロに伸ばされたこの手が、僕にはとても貴い物に見えたんだと。だけどそれは上手く言葉にできず、代わりに僕はさらに力を込めて彼女の手を握る。この想いが言葉以外の方法で伝わるように。 そんな願いが通じたのか、笹瀬川さんは 「ええ、大丈夫ですわ」 僕に握られていた手をほどき、逆に包み込むようにして、 「ちゃんと、伝わってますから」 小さな笑顔とともに、そう言った。 そして僕の手を離して立ち上がる。それから浮かべていた笑顔を少し悪戯っぽいものに変えて一歩下がり、人差し指だけ伸ばした右手をこちらに向けて、 「ほら、くるくるくる〜」 いつかと同じ、優しい声と仕草。それにつられるように、僕はその手を捕まえようとする。力をいれずにゆっくりと。案の定逃げられる。追う。逃げられる。追う。逃げられる。 「ほらほら、こっちですわよ」 「ん……にゃんっ!」 「可愛くありませんわよ」 ふざけて出した猫の鳴きまねに呆れた顔をしながら、笹瀬川さんの指が僕の額をつついた。その隙をついて彼女の右手を取る。あら、と笑った彼女が今度は左手を同じように僕に向けようとする。僕はその手を間髪入れずに左手で捕まえる。そうしてそのまま笹瀬川さんを引っ張ってその体を腕の中に収め、 「きゃっ、ん……」 「……んんっ」 唇を交わした。 そのまま数秒。雨音が遠ざかり、互いの息遣いしか聞こえなくなる。手を離し、お互いの背中に腕を回す。一旦唇を離し、視線と微笑を交わしてからわしてからもう一度キス。今度はさっきより深く、長く。雨音が完全に聞こえなくなり、部屋には最早どちらのものかも分からない吐息と、 ぐぅ〜 僕の腹の虫だけが響き渡った。 …… ………… ……………… 地獄のような沈黙が降りる。さっきまでとは違う意味で雨音が聞こえない。 「…………」 「ご、ごめん。お昼ご飯食べてなくてさ、はは……」 「…………」 「いや、そういう問題じゃないよね、うん。でもこればっかりは仕方ないって言うかさ、どうしようもなかったと思うん」 「……あなたって人は……」 「です、けど……」 「ほんっとーに! デリカシーがありませんわね!!」 「ご、ごめん! いやもう本当にごめんなさい!」 その後はもう、さっきまでの甘い雰囲気なんてどこへやらとばかりに滅茶苦茶怒られた。自分の意志でどうにかできる物じゃないし仕方ないんじゃないかと思わなくもなかったけど、さすがにあのタイミングは無いと自分でも思ったので三十分にも渡るお説教も黙って耐えた。 「はあ……それじゃあお昼ご飯作ってきますから、少々お待ちいただけます?」 むしろあんな事をした後でもこうしてちゃんとお昼を作ってくれるのだから、笹瀬川さんはやっぱり優しい……って、もう戻ってきた? 「はい、どうぞ」 「……あの、笹瀬川さん?」 「なんです?」 「これはなんでしょう?」 「あなたのお昼ですわよ」 「……モンペチに見えるんだけど」 「ええ、新味だそうですわよ」 「……これを食べろと?」 「あなた猫なんでしょう?」 にゃんっ、と言いつつ僕の右手を取る真似をする。どうやらまだ怒りは収まってなかったらしい。さっきのことを引き合いに出され、いつかの意趣返しまで笑顔でしてくる笹瀬川さんに、僕は黙って土下座する事で答えた。あ、やばい、ちょっと泣きそう。 「ふう。まあこの辺で本当に許してあげますわ。それでメニューのリクエストはあります?」 「……じゃあチンジャオロースで」 「またですの? あなたも飽きませんわね」 「好きなんだよ、笹瀬川さんのチンジャオ」 「ま、まあそう言われて悪い気はしませんわね。それじゃあ、作ってきますわ」 そう言うと、笹瀬川さんは今度こそ材料や鍋を取り出して調理を始めた。僕はそれを見て一つため息をつく。テーブルの上に置かれたままのモンペチを苦笑しながら片付けようとして、 「あれ……ねえ、笹瀬川さん」 「なんですのー?」 「ふと思ったんだけど、何で笹瀬川さんモンペチなんて持ってるの?」 「えっ……」 あ、動きが止まった。聞いちゃまずかったかな。 「た、たまたまですわよ。た、ま、た、ま! そ、そう! 神北さんが棗鈴から預かってるものですわよ!」 「へえ、そうなんだ。僕はてっきり最近笹瀬川さんが鈴の居ない間に学校の猫たちと仲良くしようとしてるって言うから、それで自分で買ってきたのかと」 「なあ、何故それを! じゃない! わ、わたくしがわざわざ棗鈴の飼い猫に近づくなんて、そ、そんな事あるはずが無いでしょう!」 「いや、あれ鈴の飼い猫ってわけじゃないし。それに僕も見たよ、たしかこの間はアインシュタインと一緒に遊んでたよね」 「あ、あれは向こうが擦り寄ってきて離れないから仕方なく……」 「あ、やっぱりちゃんと相手してくれてるんだ」 「〜、〜〜、〜〜〜!」 「いや、良い事だと思うよ。できればこれを機に鈴と仲良くなれたらいいのに、てぇ! さ、笹瀬川さん、包丁もってにじり寄ってこないで!」 「そ、それ以上世迷言を言うなら、わたくしにも考えが……!」 「ご、ごめん! なんでもない! 気のせい! 空耳でした!」 「ふん! 分かればいいんですのよ!」 そう言って調理に戻る笹瀬川さんを見てまたため息。いつもの事だけど今日もまた僕は彼女に謝ってばかりだ。これ以上藪から蛇を出さないように大人しくしていよう。少なくとも彼女が昼食を作り終えるまでは。 そう思いながらふと時計を見る。僕がこの部屋にお邪魔して、まだ二時間も経っていない。なのに、もう随分と色んな笹瀬川さんの姿を見た気がする。 これもまたいつもの事。こうして新しい「笹瀬川佐々美」に出会う度に、僕は彼女をますます好きになる。 さて、まだ始まったばかりの今日という日に、彼女はあと幾つ僕に新しい表情を見せてくれるだろうか。 「できましたわよー。お皿、並べてくださる?」 「うん、まかせて」 彼女の声に、笑顔で答える。できれば、僕の表情も今まで笹瀬川さんが見た事の無い新しい物だといいなと思いながら。 あとがき 多分この後二人はしゃららえくすた〜し〜なシーンに入るんでしょうが、諸々の都合でカットされました。くそ、理樹もげろ。 以上、木村”佐々美かわいい!”英嗣でした。 |