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 じわり、と額に浮かんだ珠のような汗が顎先から滴り落ちる。
 熱い。体だけでなく、心までも。心臓が骨肉の部屋が狭すぎると不満に扉を叩き割らんばかりに激しく脈動している。力強く押し出された血液が全身を駆け巡り、やがて、末端である指先へと至り、とんぼ返りする。そのあまりに急な制動に指先は細かく震えていた。あるいは恐ろしいのか――と、佐々美は持ち前の気の強さから、フンと小さく鼻を鳴らして否定した。右手にあるボールをグローブの中に仕舞い込み、足元のロージンバッグを拾い上げ、弄ぶように二、三回手の平の上で跳ねさせる。白粉が手汗を吸い、松脂の匂いが鼻腔をくすぐった。大きく肺を膨らませ、ケーキの蝋燭を消す時のように、口を窄めて細く息を吐き出す。グローブの中のボールを握りしめる。震えはおさまっていた。

 吹奏楽部の奏でる応援曲などに紛れて、知己たちも声を上げているのだろうか。最愛の恋人――理樹の声援には随分と勇気づけられたものだが、全国区レベルになってくると学校も本腰を入れて応援するようになり、今では喧噪の中に紛れて分からない。大勢の人間がいる中、球場で最も注目されるパワーサークルの中心で佐々美は独りだった。無論、自分の後ろには心強いチームメイトがおり、声援を送ってくれる人間がグラウンドの外にいることも知っている。
 だが、投げるのは……否、全国区レベルのチーム相手に投げられるのは一人。笹瀬川佐々美をおいて他にいないのだ。

 ボールを持つ右手とグローブを嵌めた左手を合わせて腹の前に置いたまま、すっと目を閉じ、己の中から雑音、雑念、雑感を追い出し、自分を透き通らせる。思い描くのは己が理想とする投球フォームだ。目を開けた時、佐々美は何度も思い描き、朝な夕な体に刻み付けたそれを、なぞるように繰り出した。
 頭を下げ、グッと屈んで力をため込む。跳ぶように大きく踏み込むのと同時に右腕を風車の如く一回転。ため込んだ運動エネルギーを指先から解き放つ際、縫い目に指を引っ掛けたまま手首を捻り、バックスピンを加える。空気を削り裂いて往く球は、打者の手元で球一つ分浮き上がり、そして……。


 ――ゴッ、と渇いた音が響いた。夏の終りを告げる音だった。





手さぐり青春謳歌

written by ぴえろ




 納まりきらなかった白濁液が、どろりと佐々美の口端から零れた。佐々美の口を塞ぐそれは、今なお、前後にピストン運動を続けている。ぼぅっとどこを見ているか定かではない佐々美であったが、それに喉の奥を突かれ、嚥下神経を刺激されると流石に反応を示した。

「な、何をなさるんですの!?」

 喉元を押さえて何度かむせながら、佐々美はテーブル代わりのミカン箱越しにいる理樹を睨んだ。

「ご、ごめん。加減が分からなくて……」
「……何ですの、それ?」
「え、見て分からない? アイスだよ」

 ミルク味の、と佐々美にとってどうでもいいことを理樹は付け加えた。

「いえ、そうではなく、何でそんな物をお持ちなのかしら?」

 佐々美の記憶では、理樹の右手にはシャープペンシルが握られていたはずなのだが、いつの間にか、アイスキャンディーに摩り替っていた。

「えー、いやいや、覚えてないの?」

 理樹は弁明した。曰く、暑いので今日はいつも通うルートにある自販機のジュースではなく、食堂に設置されている自販機のアイスを買いに行った。気を利かせて、佐々美の分も買ってこようとしたが、生返事ばかりだったので、理樹がテキトーに選んで買った。が、買って来ても佐々美は一向に口にしない。机の上におかれたアイスキャンディー(ビニール袋付き)は汗をかいていた。勿体なくなり、食べるのかと佐々美に訪ねれば、えぇ、とまたも生返事。真実、佐々美はアイスなどどうでもよさそうだった。いっそ自分で食べてしまおうかと思ったが、自分だけアイスキャンディーを二本も食べるのは気が引けた。これは佐々美に買ってきたアイスキャンディーである。ならば、佐々美が食べるべきである。というよりも……えぇ、白くて太いのを咥える佐々美さんが見たかったんですぅ、と流石に健全であるが故に邪まなその発想まで理樹は語らず、ただ何とか食べさせようとしただけと答えた。

「今度からは、普通に忠告して下されば結構ですわ」
「えー、でも」
「結、構、で、す、わ!」
「……はい」

 笑顔で怒るという器用なことをする佐々美のこめかみ辺りに、ビキっと巨大な青筋が浮かんだ気がして、理樹は思わず頷いた。佐々美とて、理樹に何らかの下心がありそうなことには気が付いていた。かつて奇妙なあの世界での昼食にモンペチを用意してきたような男である。二人が付き合い出してから、早十ヶ月余り。お互い、色んな顔を見せ合って来たように思う。その過程で、自分の恋人が誠実だが、多少、変態的な側面を有していることに関しては、既に諦めが付いていた。

「そんなことより、また垂れてきてるけど」

 理樹がアイスキャンディーを指差す。溶けかけたアイスが滴のように垂れてくるのを見て、佐々美は慌てて掬い上げるように舌を這わせた。うわ、舌がえっちぃ……とか理樹が呟いたのが聞こえたので、身を乗り出して、拳骨を食らわせておく。少々強かったらしく、頭を抱えて転がった。いい気味だと佐々美は小さく鼻を鳴らす。そのうち、理樹は転がり過ぎて、通気のために開けっ放しの冊子からドスンと落ち、カエルが踏み潰されたような声を出した。あんまり無様で面白かったので、お嬢様笑いをしておいた。

 八月下旬、夏休みも終盤に差し掛かった頃、二人は為すべきことを為していた。
 佐々美は夏休みの宿題、理樹は受験勉強である。高校三年の大切な時期に夏休みの宿題など馬鹿げていると佐々美は思っていたが、宿題に加えて受験まで控えた理樹のことを考えると口にするのははばかれた。夏休み終盤になっても、佐々美の宿題が未だ完了していないのにはわけがある。当然、ソフトボールに打ち込んでいたからだ。
 夏休みの初め、七月下旬頃はソフトボール一色である。高校生活最後の大舞台、夏のインターハイが八月上旬に控えている以上、悠長に宿題などやっている暇などなかった。ならば、その後はどうだったかと云うと、八月中旬は北京オリピックの女子ソフトボールに夢中だった。この時の佐々美はフーリガン染みた狂熱を胸に宿しており、「録画など言語道断、ライブ中継以外はカスですわ」とさえ公言し、時差の関係から深夜放送になりがちな試合放送を観戦せんがためだけに、学校の寮にいる理樹を残して、帰省した。結果は日本の優勝。日本中が沸いたこの慶事にソフトボールを愛する佐々美が喜ばぬわけがなかった。
 この喜びを共に分かち合おうと寮に帰って理樹の部屋を覗くと、ライバルである鈴が理樹と肩を寄せ合うような形で受験勉強をしていたが、この時、ご機嫌の余り、幸せ有頂天となっていた佐々美は、菩薩如来か聖母マリアが如き慈悲心で笑って許した。それどころか、鈴を交えて戦勝パーティーを開き、朝から晩まで騒いだ。流石に三日続くと「受験勉強できんわボケー!」と鈴はキレて、佐々美に近寄らなくなった。理樹に近づけば、佐々美に近づくことになるので、自然、理樹も避けられるようになった。最近は小毬と一緒に勉強していることが多いらしく、全く真性の泥棒猫だと佐々美は評しているが、それはさておき。

「何か最近ぼぅっとしてることあるけど……悩みごと?」

 腰をさすりながら戻ってきた理樹が、突然そんなことを聞いてきた。
 佐々美はすぐに答えず、俯いたままアイスの頂きをしゃくりと噛んだ。表面は溶けかかっていたが、芯はまだ冷たく固いので心地よい歯ごたえがあった。ミルクというより練乳のような甘ったるい味が舌に広がる。どっこらしょ、と理樹が中年臭いことを口にしながら、佐々美の対面に腰を下ろす。

「もしかして、まだインターハイのこと気にしてるの? でも、あれは佐々美さんのせいじゃ……」
「いえ、違いますの」

 軽く首を振って即答した後、佐々美は目を伏せ、長い睫毛で物憂げな影を作ると、理樹もまた深刻そうに顔を伏せた。自分の態度が却って心配させてしまっていることに、佐々美ははたと気づいた。少し困った風に軽く手を振りながら微笑みを浮かべる。

「本当に、違いますのよ」

 理樹には感謝しているのだ、心から。だが、それが故に、理樹には言えなかった。




 インターハイ――全国高等学校総合体育大会ソフトボール競技大会、準優勝。
 それが佐々美が学校にもたらした栄光である。しかし、その栄光は佐々美に無制限の喜びをもたらさなかった。嬉しくないかと言われれば……嬉しい。自分たちより強いチームが一校だけあるというのが釈然としないが、完全ではないにしろ、努力が報われた証拠であるし、勝ち取ることができたチームメイトを誇りにも思っている。だが、おそらく優勝であったとしても、それは一時の歓喜に過ぎなかっただろう。インターハイでの敗北は確かにショックではあったが、それ以上に佐々美の心を空虚にする現実があった。

 幼い頃に見た夢が、叶わぬと知ってしまったのだ。

 オリンピック代表選手となり、優勝し、ゴールドメダリストになる。
 それこそが、佐々美のソフトボール人生において掲げた最終目標……夢だった。きっかけそのものは、よくある話だ。ソフトボールに触れて間もない頃、そう、十歳の時にテレビで見たのだ。オリンピック、すなわち、世界最高峰のソフトボールと云うものを。ピッチャーの球を見て、凄いと思った。誇らしげに表彰台に上がる人を見て、羨ましいと思った。自分もいつかあそこに立ちたいなぁ。――ただそれだけである。だが、それこそが佐々美にとって夢の出発点、自身のソフトボールにおける原風景だった。
 その夢が叶わぬ理由は、佐々美の才能や努力不足ではなく、佐々美を取り巻く世界がそう定めたのだ。IOC――国際オリンピック委員会によって、ソフトボールは次回の二〇一二年のロンドンオリンピックより正式競技から外される。そして、二〇一六年以降もまた、正式競技とされるかは未定だった。
 二〇〇八年現在、佐々美は十八歳である。もしも、佐々美が代表選手の一角を担うとすれば、二〇一二年か二〇一六年のオリンピックだっただろう。それ以上は、肉体年齢的に不可能だ。世界最高峰は、そんなに甘くない。

 やっと、わたくしの番だと思っていたのに……!

 よりにもよって、自分の一歩手前で打ち切られる。これ程歯軋りしたくなるようなことはない。四年早く生まれていれば、自分とてメダリストの一人になれた。才能と努力で培われたその自負があるからこそ悔しい、口惜しい、妬ましい。
 日本の応援は誰よりもしていた。が、それは言わば、自分の胸裏に眠る醜い嫉妬心を誤魔化すためだったのかも知れない。もしかすると、理樹と一緒に見ようと思わなかったのは、日本が無様に負けた時、胸裏に燻ぶる火種が激しく燃え上がり、理不尽な八つ当たりをしかねないと思ったからではなかろうか。今は、そんな妄想染みたことまで考えてしまう。

「わたくし、これからどうすればいいんでしょうね……」

 理樹の部屋から出てトイレに向かう途中、呟く。男子寮の廊下を不貞腐れた子供が足を投げ出すように、ペッタンペッタンとスリッパを鳴らしながら歩く。その背は自信家の佐々美らしからず、些か丸い。猫の耳のように見えるリボンも心無しへにゃりと垂れているようだ。
 女子ソフトボールにプロリーグはない。実業団による社会人チームはあるが、それは会社員兼ソフトボール選手なのであって、厳密に言えば、プロではない。そのことを雑誌などを通じて知っていた佐々美にとって、オリンピックこそが夢足り得たが、それは潰えてしまった。
 そのせいか、実はここの所、佐々美はソフトボールへの情熱が薄れてしまっていた。本来、ソフトボールの道を歩み続けるつもりであれば、こんな所で暢気に夏休みの宿題などしていていいわけがない。自分の実力を買ってくれる企業、あるいは大学を一つに絞り、そこで現役選手に交じって、練習に参加して然るべきだった。現に、佐々美のチームメイト数人は、そうして未来への道を踏み固め、歩き出している。

 佐々美もそうしていたかもしれない。――理樹がいなければ。
 まるで自分だけが一方的に理樹を食い潰しているようで、佐々美は嫌だった。オリンピックの夢が叶わぬのであれば、これからは理樹のために時間を使うべきなのではないだろうか。スポーツ推薦を蹴るのは惜しいし、今から受験勉強をして、理樹と同じ大学に入れるかどうかは分からないが、そうすべきではないのか。だが、ソフトの方も可能性がゼロではない。二〇一六年には再開されるかも知れない。理樹との日々を選んで、もし、そんな時が訪れれば……自分は激しく後悔するのではないのだろうか。しかし、八年も先の話だ。八年――それだけの時間を再び犠牲にするには、理樹との日々は幸せ過ぎた。どちらが正しいのか、佐々美には全く分からない。

 理樹は自分と付き合っていて、幸せなのだろうか。
 不意にそんなことを考えてしまうことが佐々美には度々あった。幸い、どちらも寮生なので逢瀬することはそう難しいことではなかったが、佐々美は休日も部活に励むため、満足にデートに出かけることもできない。十ヶ月あまり交際しておきながら、デートした回数など両手指で足りる。一般的な風紀問題はこの際捨て置くとして、男女の営みも寮生活の中では行うのは難しいし、何より、部活動で疲れ果ててしまって、性欲よりも睡眠欲を満たしたいと拒否してしまうことも多かった。一度肌を重ねる機会があれば、濃密な時間にしようと思わないでもなかったが、佐々美の性格からしてそんなおねだりなどできなかったし、愛情からではなく罪悪感からそうするのは嫌だった。
 三年になれば、多少変わってくるかもしれない。何せ春なのだから、と何の根拠もなく思ったが、現実にはそんなこともなかった。二人して一緒になれればいいと言っていたが、一、二年生ではあるまいし、運によって一緒になることもなかった。ただただ機械的に、スポーツ推薦で大学・企業に行くと目されていた佐々美と、中の上程度の成績と文系であるということ以外はさして特徴の無い理樹は、まるでジャンル別に分けられる品物のようにあっさり違うクラスになった。

「宮沢様と一緒のクラスになれたのは、結構なのだけれど……」

 憧れの謙吾も教師には佐々美と同じジャンルに見えたらしく、謙吾と一緒のクラスになったことだけがクラス分けでの幸運と言えば幸運だったが、理樹という恋人がいる今となっては素直には喜べず、複雑な心境だった。そして、そのままずるずると日々はソフトボールに費やされ、ふと気づけば、もう夏が終わろうとしているではないか――。

「む? 笹瀬川か、久しいな」
「み、宮沢様!?」

 男子寮には当然男子トイレしかなく、佐々美が小用を済ませようとすれば、わざわざ一度男子寮を出る必要がある。廊下を曲がった先の玄関で、謙吾に噂をすれば影とばかりに出くわして、佐々美は慌てた。肩や鎖骨、へそをむき出しにしたキャミソールに太腿まで見えるデニムのショートパンツ、ニーソックスの類も履いていない夏服姿は、憧れの男性に見せるには些か肌の露出が多すぎる。我知らず、佐々美の頬に朱が差す。

「その呼び方、いつになったら直してくれるんだ?」
「あ、申し訳ございません。宮沢……さん」

 若干引き気味の謙吾に佐々美はどぎまぎしつつ、呼び直す。理樹との交際の結果、リトルバスターズの面々と付き合うことが多くなったが、謙吾もそうした一人だった。二年の頃を思うと、一緒のクラスになったことも作用して、かなり親しくなった。無論、謙吾も理樹と佐々美が交際していることは知っているので、妙な噂が立たない程度に接しているし、佐々美も面と向かって謙吾から言われたわけではないが、そういった謙吾の心中は察しているつもりだ。

「もう御帰りになられましたの?」

 理樹経由で謙吾が入学予定の体育大学の強化合宿に行っていたり、その後、実家の道場で剣の研鑽を積んだり、小中学生の指導をしたりしていることは聞いていた。もうすぐ夏休みも終わるので、そろそろ戻ってくるかと思っていたが、佐々美の予想よりも数日早い。

「あぁ、現国の小論文がさっぱり手についてないからな。まだ何のテーマで書くかすら決めてないんだ……。これから学校の図書室に詰めて何とかしようという腹積もりなんだがな」

 謙吾が渋面で溜め息をついた。あらかじめ出された問題を解くような類ではないため、一夕一朝でできるものではない。時間に追われた者にとっては、青息吐息の難題とも云える。そう言えば、絶賛就職活動中の筋肉もとい真人はどうするのだろう。まさか既にやってあるということもないだろうに、とほんの少し気にかかったが、すぐに忘れた。理樹は何かと心配しているが、佐々美はわざわざ部屋から追い出す必要がなくなって便利だとすら思っていた。佐々美にとって、所詮真人はその程度の存在だった。

「それでしたら、西園さんを訪ねてみてはいかがです? おそらく、今日も図書室に籠って、赤本かあるいは小説でも開いてることでしょうし」

 小論文には参考文献を使うことが条件下されている。本の虫と云うべき美魚ならば、分かりやすい参考文献を直接紹介するなり、見つける方法(例えば、佐々美たちの学校の図書室はキーワードでコンピュータ検索できるが、効率的なキーワードが思い浮かばなければ意味がない)などを伝授してくれるだろう。佐々美も美魚のおかげで大分早く小論文を完成させることができた。ちなみに美魚はそれを夏休み開始わずか三日で完成させている。どうしてそんなに早く仕上げたのか問うと、一番簡単そうだったから、と答えた辺り、根っからの文系人間なのだろう。もう一つ余談を挙げると、来ヶ谷は半日で完成させているが、彼女の場合は頭の中に図書室でもあるに違いない。それを聞いた時、佐々美はもはや、来ヶ谷は天才と云うより怪物と云った方がいいような気がした。

「ふむ……別段、読み物は苦手じゃないが、餅は餅屋というしな。頼ってみるか」

 ではな、と世間話もそこそこに声を残して去る謙吾。自室に向かうその袴姿を佐々美は見送っていた。その時、あぁ、と今しがた思い出したように、首だけ肩越しに振り返って謙吾が言う。

「後で話があるんだ。良かったら、来てくれ」




 佐々美は学食裏のベンチに借りてきた猫のように静かに腰をおろしていた。じめっとした日本特有の嫌らしい風が首筋を撫でる。暑い。今日も真夏日のようですと天気予報士が涼しい顔で言っていたのを思い出す。レースが織り込まれたハンカチで汗を拭っているが、もはや濡れてない所を探す方が大変だった。赤く燃える夕日など見ていると、さっさと沈んでしまえばいいのに、と恨んでしまいそうだ。
 しかし、メールでこんな学食裏を指定してきて、一体何の話だろうか。もうすぐ日も暮れそうであるし、人気のない場所でするような話とは……そこで佐々美はハッと息を飲んだ。まさか、男女的な……つまり、謙吾は男女交際における通過儀礼をここで果たそうと云うのではなかろうか。だめだめだめですわそんなわたくしには愛する恋人がふっそんなこと言ってもここは素直じゃないかあぁだめそんな強引になさらないでそこはまだ誰にもああ!
 と、佐々美は有閑マダムのような桃色の発想に脳内を汚染されてしまい、くねくねとマタタビでも嗅いだ猫のように悶え始める。

「一体、何をしとるんだ?」
「――ハッ、宮沢様!?」
「……卒業までには直そうな、それ」

 何やら諦めた表情を浮かべた後、謙吾は手土産に買って来たスポーツ飲料を佐々美に手渡して、隣に座った。その間、もし熱気が伝わるくらい傍に座られたらどうしようなどと桃色延長戦を脳内で一瞬したが、完全に杞憂だった。一人分は空いた所で謙吾がカコッとプルタブを開け、一口呷る。佐々美も勧められて、一口呷った。こくりこくりと喉が勝手に動き出す。思った以上に体は水分を欲していたようだった。
 しばらく、ぼぅっと時が流れた。気の早い赤とんぼが目の前をひゅいと軽やかに飛んで行った。

「そ、それで、その……お話、とは?」

 中々謙吾が切り出さないものだから、佐々美から切り出した。何とも言えない空気で待たされるのは針の筵とまで行かないまでも中々辛かった。あぁ、そうだなと謙吾はベンチから背を離し、やや前かがみになる。自身の太ももに両肘をつき、指を組むように缶を持ち直すとその手の大きさ故にすっぽりと収まった。逡巡するように空いた親指をぐるぐると回して、指体操をし始める。

「実はな。理樹にお前のことを頼まれた。相談に乗ってあげて欲しい、と」
「あの人が?」
「あぁ、真偽はともかく、理樹はお前が悩んでいる、と思っているらしい。しかも、それは自分には話しづらいことのようだ、とも言っていた。……そうなのか?」

 謙吾に問われ、佐々美は動揺を禁じ得なかった。えぇ、まぁ、その、と戸惑いを漏らした後、目を泳がせ、口ごもってしまう。謙吾もそれを見て真であると察する。

「それは俺に言えるものなのか?」

 再度問う謙吾。突然の申し出に佐々美は一種の思考停止状態にあった。軽々しく人には打ち明けられない。だからこそ、悩み……なのだった。

「言えないのなら、それでも構わないんだ。そもそも、頼んできた理樹自身も何故、教師でもなく、他の……そう、例えば、お前のルームメイトである神北でもなく、真っ先に俺に頼む気になったのかよく分かってなかったようだからな」

 本当にそうなのだろうか。確証がもてないだけで、理樹はもう察しているのではないだろうか。今、佐々美が理樹とソフトボールを心の天秤にかけていると云うことを。敵いませんわね、と佐々美は苦笑い気味の微笑を浮かべた。そして、とつとつと胸の内に仕舞いこんでいた懊悩を言葉に代えて並べていく。全てを言い終えた後、謙吾の方を見ると、彼はハッとした表情のまま目の前の地面を見ていた。

「あの……聞いて下さってました?」

 これが理樹なら、デコピンなり何なり制裁が加わっている所だが、謙吾が相手だと佐々美は淑女がるのだった。

「あ、あぁ、すまん。話はちゃんと聞いていたが、ちょっとぼぅっとしてしまった。しかし、そこまで答えが出ているのなら、後、必要なのは決意……なんだろうな」
「決意?」
「そうだ。どちらが正しい選択かなんて、俺には分からない。お前にも分からないんだ。きっと誰にも分からない。だが、それでも選ばなくてはいけない、選ぶべきだとお前が思うのなら――俺がその背を押してやる」

 謙吾の目力が強くなって、不覚にも佐々美は胸をときめかせてしまった。

「――笹瀬川、お前は理樹と過ごす道を選べ。ソフトはお前じゃなくても誰かがしているが、理樹の恋人はお前だけなんだからな」

 いや、これは論点がズレているか。そう呟いて、謙吾は続ける。

「八年の時が過ぎて、自分の選んだ道を後悔する時が来たら、背を押した俺を恨むといい」

 悩みは解決したとばかりに謙吾が立ち上がり、歩み去ろうとする。ぼけっとしていた佐々美がハッと気が付き、その背に声をかける。

「な、何故、そこまで仰るのですか? その、わたくしのために……」

 たかが相談に恨んで良いとまで言う謙吾が佐々美には理解できなかった。

「理由はまぁ、二つだ。一つは、お前が俺の親友の恋人だから。二つ目は……大事なことを思い出させてくれた礼だ。忘れてはならない言葉を、俺は忘れていたらしい。情けない話だ」

 謙吾がフッと自嘲気味に口角を吊り上げる。

「もし、ひとつのことに絶望したとしても、人間、やれることなんて、いくらだってある……か。そうだ。剣道だろうが、ソフトだろうが、結局は――たかがスポーツだ。この世にはそんな物より尊いものが沢山あるはずだ。笹瀬川、少なくともお前は既にそれを一つ、手に入れているじゃないか」




「つまり、ソフト止めるってこと?」

 理樹の部屋に行って、相談のことを話すと理樹は意外そうな反応を示した。

「いいえ、止めませんわ」
「え、何で? 佐々美さんがツンデレだから?」

 意味不明なことを言ったので、軽くデコピンを入れておく。アウチと理樹は何故かアメリカンな悲鳴を上げて、額を押さえた。

「わたくし個人の決断に宮沢様を巻き込むわけにはいきませんもの。それにわたくし、そういった逃げの選択肢なんて性分に合いませんの」
「まぁ、その性分のおかげで、インターハイの決勝でサヨナラホームラン負けしてしまったわけだけど」

 満塁策取ってれば良かったのにね、と軽く笑顔で毒を吐いた理樹に身を乗り出して、両頬をつねり倒す。ひぎぃっとこの世あらざる悲鳴が上がった。

「でもまぁ、その方が佐々美さんらしいかな。僕もソフトボールしてる佐々美さん好きだし」
「なっ!」
「となると僕も志望校変えなきゃね。あ、多分アパート借りるだろうから、いっそ同居もありかなぁ?」
「ななっ!」
「もし、現役の間にソフトがオリンピック種目に戻らなくても、子供に期待するってのもアリだと思うんだよね」
「なななっ!」

 突然の愛の言葉の数々に、佐々美はたじろいだ。

「そ、その……ふ、不潔……ですわよ」

 もじもじと照れる佐々美を、理樹はニヤニヤと、しかし、優しげに見つめていた。

END





 ぴえろの後書き

 ソフトボールの試合でささ子が頑張るSS書いてやろうと思ったけど、挫折しました。サーセンww そもそも、実はソフトボールとか体育の授業以外でやったことないんですよねー。少年時代、機会はあったけど、少年団とかには入らなかったし。冒頭が一番めんどかった。あんま経験ないスポーツの描写とかは調査にも時間がかかって嫌になっちゃうぜ。というか、何か説明で済ます場面が多すぎるような……ぶっちゃけ、ミルクバーのシーンと謙吾とのシーン以外書く気がありませんでした。久々に本気出しましたけど、腕落ちすぎワロタw 『SSは筋トレに似てる』って誰か言ってましたが、真実ですな。書かねーと筆力ってだだ下がりする。(´Д`;) 「ぼくがかんがえたささ子えぴそーどのその後」を語るので精いっぱいで、何か余裕がないSSですんません。後、佐々美の夢とかねつ造してますが、そこはスルーで。つか、謙吾イケメン過ぎるなコレ。珍しく終わり方から考えなかったから、何か最後がgdgdになってしまった。本当は外的要因で夢が絶望的になるって共通点でクドも出すつもりだったのに……。(2008年から宇宙飛行士の身長制限が158cm以上190cm以下に上がってます。クド\(>ω<)/オワタ。アメリカ人が基準になってるから仕方ないね)
 まぁ、何が言いたいかと云うと、ソフトボールまたオリンピック競技になるといいですねぇ。



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