六時限目終了後、佐々美はすぐに部活に出ることにした。
 昨日は、事件のショックなどで部活を休んでしまったため、今日こそはきちんと顔を出して、遅れた分を取り戻さねばと思ったのだ。
 佐々美にはいまだ例の女のことが気にかかり、多少後ろ髪引かれる思いであったが、想い人とはいえ他人の色恋沙汰に首を突っこんで部活を二度も欠席するなど、とうてい部のエースとしてのプライドが許さなかった。
 気合いを入れ直してマウンドに立ち、バッターに向かってボールを投げる。
 そしてふと、横目にとらえたある金色の風景。
 差しかかる穏やかな夕陽を浴びながら、楽しそうに草野球をプレイする仲良し集団、リトルバスターズ。
 そんな集団の中に、謙吾の姿はなかった。彼も今は部活動だろうか。
 もしや今――こっそりあの女と逢瀬を重ねていたりするのでは。
 そして、そこでおかしな話などをして、楽しそうに笑い合っているのでは。
 ひょっとして、いい雰囲気になっちゃったりしているのでは。
 そしていい雰囲気になっちゃった後は、おなじみの――もしくは、初めての――。
 佐々美の頭の中にどうしようもない不安と焦りがわき起こり、冷たいものが背筋をそわそわと這い上がっていく。
 声が、聞こえる。
 ぼんやりとした、霧のような声が。
 自分の名前を呼んでいる。まるでスロー再生のように、ゆったりと。
 だんだんと、その声がはっきりとしてきて――。
「佐々美さまっ!? 危なーい!?」
「へ? ――ぶぎゃんっ!」
 キャッチャーの投げたボールが、頭に直撃。
 よそ見していた佐々美への、神からの罰であった。








「痛い……」
 まだ当たった箇所がジンジンとする。
 涙目になってその部分をさすっていると、隣にいた鈴から、一瞬心配そうな視線を向けられ、
「まぁ……じごーじとくってやつだな」
「……あなたに言われなくてもわかってますわよ。えらっそうですわねぇ……」
 やれやれと溜息をつかれる。
 相も変わらずマイペース根性を貫いているこの子猫にはイラっとくるが、すぐに佐々美は今自分たちがどこにいるのかを思い出し、悔しく思いながらも口をつぐむ。
 夕闇の中に白い光がこぼれる立派な剣道場からは、威勢のいい掛け声が響いてくる。
「ヤアァァァ――――――――――――ッ!」
「メェェ――――――――――ンッッ!」
 ガチガチガチガチッ、と火花のように竹刀がぶつかり合う音が響いてくると同時に、獣のように咆哮せられた剣道部員の大音声は、同じ運動部のエースである佐々美からしても、圧巻の一言であった。
 さすが全国区の剣道部。道場の床を踏みならすその重厚な足音を聞いただけでも、ソフト部とは気合いの入りようがまったく違うということが伝わってくる。
 率先して休もうとする者など誰一人としていない。そんな、同じスポーツマンとして褒め称えるべき一種の聖域を、入り口の陰に隠れてこっそりうかがっていた佐々美と鈴は、どちらからともなく長い感嘆の息を吐いた。
 だが鈴は、それでも佐々美よりは少しこの光景を見慣れているのか、得意そうな顔つきになって口を開く。
「謙吾のやつ、ちゃんといるみたいだな」
「えっ!? ど、どこですの?」
「あそこ」
 はやるままに鈴の指差した方向をたどっていくと――、見つけた。
 面を被っているのでちょっとわかりにくかったが、ちらりと見えた剣道具の垂の部分には、はっきりと『宮沢』と名前が書かれてあった。
 同じくらいの体格である『斉藤』という選手と立ち向かい、試合稽古をしている。
「わ、わぁ……」
 佐々美たちの本来の目的は全然違ったのだが、図らずとも、これが初めて見ることのできた謙吾の試合姿であった。佐々美は幼い少女のように目を見開いて、うっとりとした声を上げる。
 斉藤と謙吾はしばらくそのまま激しく打ち合い、一進一退の攻防を繰り広げていたが、最後にわずかに見せた斉藤の隙を、謙吾の竹刀が鋭くとらえた。
「マァァァァ――――――――――――ンッ!」
 ドンッ、と一気に床を踏み込み、力強い面を一本。
 打たれたほうはバランスを崩しながらもよろよろと後ろに下がって踏みとどまり、その後またゆっくりと二人で元の位置に戻りあって、再び打ち合いを始めた。
「ああ、宮沢様……素敵……かっこいいです……」
 完全にトリップモードに入っている佐々美の隣で、鈴が納得いかないように首をかしげた。
「いや、でも……あいつ馬鹿だぞ?」
「馬鹿だっていいんですわよ……ああ、そこっ……すごい……圧倒していますわ……」
「でも、マーンだぞ?」
「マーンでもいいですわよ。ああ……そこ、ほらっ。私も一緒に、まーんっ♪ ……」
「……」
 ちょいっ、人差し指を一振り、満面のニコニコ顔で奇怪な宇宙語をしゃべる佐々美であった。
 鈴は、くっだらねぇ、とでもいうかのような重い息を吐き出し、直後、ぼそりとつぶやき声。
「……きしょ」
「きしょくたっていいんですわよ〜♪ ほほほ〜♪」
「おまえのことじゃ、ぼけっ!」
 ぼかんっ、と鈴に頭の痛いところを殴られ、佐々美は「きゃふん!?」という声を上げてうずくまる。
「な、なにすんのよっ!?」
 涙目になってじんじんと痛いところを押さえつつ、顔を上げて鈴のことを睨み付けるが、それを見下ろす鈴はうざったそうに目を細め、ぺっ、とつばを吐く真似をした。
「なにが、まーんっ♪ だ……このぼけ。あまりにもきしょすぎるからあたしが引き戻してやったんだ。ありがたく思え」
「な、なんですってぇ、このっ! 誰がそんなこと頼みましたの!? ちょっとっ、私にもお返しさせなさい!」
 佐々美はお返しにほっぺたでも引っぱたいてやろうかと思ったが、鈴はなおもめんどくさそうに顔をゆがめ、ちりんちりんと首を横に振る。
「ばーか。今はそんなことどうだっていいだろ。別にあたしらは謙吾の練習しているところを見に来たんじゃない。あの女を捜しに来たんだ」
 佐々美はその言葉にハッとして、ゆっくりと手を引っ込める。
 そうだった。
 佐々美たちは、あの例の女との逢い引きシーンを目撃するために、わざわざこの剣道場にまでやって来たのだ。
 部活終了後に、すぐに鈴とこの場所に直行してきたので、佐々美はシャワーも浴びておらず、汗くさいソフトボールのユニフォームのままだったのだが。
 佐々美は、なんとなく居たたまれない気持ちになって、顔をわずかに伏せて反省する。
「そ、そうでしたわ……あまりにも宮沢様が素敵すぎて……変な世界に飛んでいました。ごめんなさい」
 佐々美は先ほどの自分の失態を思い出して、顔を伏せながらも、ぽーっと赤面するのだった。
 もしここに鏡があったならば、自分としてでも、もはや正視できない状態であったに違いない。
 こんな宿敵の前で無様な姿をさらけ出してしまったのが非常に悔やまれる。あの油断ならない魔女、来ヶ谷唯湖に見られなかっただけまだマシか。
「それにしても……今考えると、ちょっと様子がおかしいですわね……もう七時をすぎていますわ」
「ん、そうか? 謙吾はいつもこれくらいに遅いぞ。もっと遅いときもある」
「そうじゃなくって」
 と、佐々美はかぶりを振り、ゆっくりと周囲の様子を見回す。
 夕陽はもう出ていない。外はどっぷりと陽が暮れて、真っ暗になっていた。
「もう、全然どこにも夕焼けなんかありませんことよ。仮にもし、これからその女と一緒に校舎裏を歩くにしたって、もう時間が遅すぎます。暗すぎてまともに顔なんか見れませんわ」
「む……」
 鈴も一度後ろの宵闇を振り返り、中の明るい剣道場と見比べて、怪訝そうな表情になって考え込んだ。
「休憩時間に一緒に出かけたんじゃないか?」
「かもしれませんわね……あ、でもだとすると、その女性は同じ剣道部員って可能性が高くなってきますわね。なんだかシチュエーション的には苦しいと思いますけど……」
「うーみゅ……」
 二人して考え込む。
 宮沢謙吾は果たして、部活の休憩時間に、その謎の女と校舎裏へ出かけたのか。
 鈴ではないが……その謙吾の秘密の恋人の正体を暴くということに、なんとなくとも罪悪感を抱くようになってきた佐々美であった。
 しかし、まだそれよりも、若干自らの興味と執念のほうが勝っている。
 一度中の様子が気になって深く覗いてみるが、それらしい女性を見つけることはできなかった。
「うー……なんだか、怪しくなってきたんじゃないか……?」
「はい?」
「その噂が本当かどうか」
 鈴が面白くなさそうな顔でつぶやいた。
「本当に……その謎の女とやらは存在するのか?」
 又聞きである鈴には、その話の信憑性がだんだんと崩れてきてしまっているみたいだった。
「うーん……でも、確かに私は聞きましたわよ。その後ちょっと事情があって聞けなくなってしまいましたけど、内容はとてもシンプルで、嘘くささは全然感じませんでしたわ」
 恥ずかしいのでそのまま気絶してしまった、とは言えない。
 しかし佐々美の耳には、あれはやたらと現実味のある噂として、あの後もずっと残り続けていたのだった。
 これは単なる佐々美の直感にすぎないが、あれは恐らく真実のはずだ。もちろん、ただのデマであってくれればと願うのは確かだが――。
 鈴は、少し考えに耽るようにした後、ゆっくりと顔を上げ、
「やっぱり……この際は、本人に直接聞いてみた方がいいな」
「へ!?」
「ちょっとおまえ、道場の中に入ってあいつのこと呼んでこい」
 などと、わけのわからないことを言って、道場の中を指差すのだった。
 確かにそれは、現時点でもっとも効率的な方法であるが――しかし当の佐々美にとっては全然効率的な方法ではない――というかなんというか、今はもう汗と埃まみれで髪の毛はボサボサになってるし、シャワーも浴びてないから心なしか体全体が汗くさいし、履いているソックスも泥と埃だらけでとうてい他人にお見せできるものではない――今こんな姿を謙吾に見られたら、自分の命は即かき消える、という瀬戸際に立っているのだ。
 それでもこの子猫はGO(行ってこい)、と言うのだ。自分ではなく、佐々美に対して。つまり今すぐ、夜空の星の一部になってこいと。
 そんな目指したくもない未来に思わず身震いし、佐々美はその藍色のツインテールを横にぶんぶんと揺らした。
 謎を解明するより、世の中にはもっと重要なことがあるのだ。時として人はそれを、イメージと呼ぶ。
「どうして私が行かなくちゃいけないんですのよ! どう考えたって今ここで行くべきなのは、宮沢様の親友でもあるあなたでしょうが! 私なんかまっぴらごめんですわよ! こっちに一人で隠れてますからね!」
 こそこそと逃げようとする。
「わ、ばか! 待て、あたしを一人にする気か!」
 そんなところを鈴に捕まり、引っつかまれたユニフォームの生地がびよ〜んと伸びる。佐々美はそのまま無理やり引き離そうとしたが、一瞬生地の心配をしてしまい、ばちんと弾かれるように引き戻された。
「こ……こんなひどい姿は、ぜっ、絶対に宮沢様には見せられませんわよ! あなたが一人で行ってきなさいよ!」
「無理じゃっ! あんな身体がごつくて怖いやつら相手に、あたし一人でどないせーっちゅんじゃ! 死ぬわ!」
「死にはしませんわよ! ちょっと親友に会いに来たって言うだけでしょう!? 誰もあんたのことなんか気にしませんわよ! ほら、行くんならさっさと行ってきなさい!」
「いやじゃいやじゃっ!」
 鈴はなおも駄々っ子よろしく首を横に振り、そして最後には弱々しげな顔になって、目にうっすらと涙を溜め、プライドもメンツもなにもかもを投げ捨てるのだった。
 ひしっ、とコアラみたいに佐々美の腕をつかんで、鈴は泣き叫ぶ。
「な……? おまえも一緒に来てくれ? 二人一緒に出陣すれば、なにも怖くないし問題ないだろ? おまえは表で、あたしは裏だ。音声のほうは任せろ!」
「だから、それで問題なくなるのはあなただけでしょうがっ!? 結局私が一人で行くことになるんじゃないの! っていうか、音声担当ってなんなんですの!? どう考えたって私たち馬鹿丸出しの不審者でしょう!」
「じゃあおまえは、あたしに死ねっていうのか!? あたしのヒョードルやヒットラー……テヅカやアインシュタイン、ゲイツやアリストテレスたちの世話はこれから誰がするっていうんだ!」
「そんな不気味な有名人の世話なんか誰もしたくありませんわよ――――っ!?」
 ついに佐々美もいやになって、目を閉じて泣き叫ぶ。
 もう、なにがなんだかわからなかった。
 どうして自分たちがこんなことになったのか。謙吾の恋人のことなんかもうどうでもよくなりかけてきた。そんな謎の偉人たちのメシの世話をしなきゃならない異常な未来を歩むんだったら、もっと平凡な人生を選ぶ。
 平凡な人間になって、あとで謙吾と浮気でもなんでもして幸せになってやる。
 そんなことを佐々美がちょっぴりと頭の端っこで考えたときだった――。
 暗雲からこぼれ落ちる一筋の光明のように、透き通った張りのある声が、宵闇の中にひらりと舞い降りた。
「なにやってるんだ、おまえら?」
『うにゃっ!?』
 鈴と佐々美の声が、綺麗に重なった。
 飛び跳ねるように振り返った先には、面と手ぬぐいを外した謙吾が不思議そうな顔で二人のことを見下ろしていた。
 汗でしっとりと濡れた銀髪が、道場からこぼれる光でキラキラと艶っぽく輝いている。
「さっきから、道場の前で変な女たちがうろちょろしていると思ったら、おまえらだったのか……。なんだ、ひょっとして俺のことを待っていてくれたのか?」
 謙吾は首にかけたタオルで汗を拭きながら、そう冗談っぽく話しかけるが、佐々美の中の思考はもはやすべてタイムストップ。口をぱくぱくと動かすだけで、なんにも言葉にして返すことができなかった。
 黙って見つめ返してくる二人の様子を肯定と受け取ったのか、謙吾は照れくさそうに笑って言葉を続ける。
「いやぁ、いきなりどういった風の吹き回しだ? 鈴に……笹瀬川までいるじゃないか。はっはっは……いきなり理樹みたいな立場になった気分だな。わざわざ迎えに来てくれたのは嬉しいが……こっちの先生はちょっと厳しい人だからな、道場前ではなるべく静かにしといたほうがいいぞ」
 そうして謙吾は、「あとは片づけだけで終わるから、もう少しだけ待っててくれ」と言い残し、道場の中に戻っていった。
 相も変わらず佐々美は変なポーズのままで固まっており、ようやく嵐が去ったのだと気づけたのはそれから数秒経ったのちであった。
 こんな恥ずかしい姿を見られてしまったことに対する羞恥も当然あったが――部活動の直後だからか、普段の三割増しくらいに男前な風貌をしていた謙吾の顔を見られたことに対する喜びのほうが、ちょっぴりだけ大きかった。
「えへへ……」
 しかも、いきなりこちらが剣道場に押しかけてきてしまったというのに、当の謙吾にはまったく邪険にされず――むしろ、少し好意的にとらえられているようでさえあって――そんな佐々美の顔には、悲しさと嬉しさがごちゃ混ぜになったような、なんとも形容しがたい表情が浮かびつつあった。
「……えへへ。えへへへ〜〜……」
 そして佐々美は、日だまりでくつろぐ猫のように目を細くして、幸せそうに笑った。
 嬉しい、と謙吾が言ってくれた。
 この自分に。
 この自分の顔を見て、ただ、嬉しいと。
 嬉しい、嬉しい。
 嬉しいぞ……佐々美。
 嬉しすぎて、おまえのことがものすごく好きになってしまった。
 これからは、俺のために、毎日迎えにきてくれないかな……?
「もっ、もちろんですわっ! 不肖この笹瀬川佐々美、毎日お迎えにあがらせていただきますっ!」
「え、本当か?」
「はいっ! ……ってわぁぁ―――――――っ!?」
 我に返り、即滅す。
 今度こそは一撃で、佐々美の一部は夜空の星となった。
 たくさんの部員たちと一緒に道場から出てきた謙吾は、少し驚いたようにまじまじと佐々美の顔を見つめた後、豪快に「はっはっは!」と笑い出すのだった。
「ならば、巫女さんのコスプレをして毎回出迎えてもらいたいなっ! そうすれば、俺は終わった後にいつも全速力で出てくるぞ! そしてそのまま、笹瀬川を寮までお姫様抱っこだ!」
「ひえぇっ!? お、お姫様抱っこ……!」
「あほ! きしょいんじゃ、ぼけっ!」
「ふごっ!?」
 ぼんっ、とゆでだこのように真っ赤となった佐々美の隣で、鈴の光速ハイキックが謙吾の胸へと炸裂する。
 あの謙吾が――。
 あの謙吾が、自分をお姫様抱っこをしてくれると言った――それはもう、ひょっとして恋人関係と言っていいのでは。
 それに、ちょっと冗談っぽい言い回しではあったが、謙吾は全然嫌そうではなかった――これは、つまるところ――。
 あれ、でも巫女――?
「おいおまえ、こいつ馬鹿なんだから、そんなこと言ったら本気でそのこと信じるぞ。そうなったらおまえ責任取れんのか?」
「うっ……そ、そうなのか?」
「ああ間違いない……。なにせ、こいつはそーとーの単純馬鹿だからだ……」
「ってこら! さっきから人の悪口を勝手に吹き込まないでもらえませんこと!? 馬鹿馬鹿って……少なくともあなたよりはマシですわよ!」
 手を伸ばし、ぎにゅーぎにゅー、と頬を引っ張ってやる。「なにすんじゃっ」と引っ張り返された。
 さっきはあんなに弱々しい風貌だったのに、こうして問題が無事に解決するとすぐ尊大となる――ちょっとでも可愛いらしいと思ってしまった自分が間違いだった、と佐々美は大いに反省した。
 そんなふうに鈴と取っ組み合いの喧嘩をしていると、ふと謙吾がまた「はっはっは!」と大きな声で笑った。
「いやー、本当に仲良しになったんだな、おまえら。よかったな鈴。またいい友達ができて」
「だぁ〜るぇ〜がぁ〜……」
「とぉ〜も〜だぁ〜ちぃ〜、でふかぁ〜……」
 言葉をつなぐナイスコンビネーション。両者とも、ぐりんっ、と顔だけ謙吾のほうに向き直って、非難めいた視線を送る。
 にしても、びよんびよんとよく伸びる頬であった。ぐりぐり引っ張り回してると、うにゅ〜っ、と鈴が涙を溜めてきた。
 ただし、それと同時に佐々美の瞳にも、目下真水が浸透中。
 目の前の子猫のことを睨み付けながらも、はやく終われ、はやく終われ、と念じ続ける佐々美であった。
「こらこら。二人ともそのくらいにしておけ。顔の形が変わってしまうぞ」
 んなわけないだろ馬鹿野郎、と突っこみたかったが、その優しげな声に反応してつい力をゆるめてしまう。
 きゅぽん、と佐々美の手が頬からすり抜け、すかさず鈴は猫のようにバックステップをとり、うるんだ瞳でほっぺをさすりながら、「ふしゃー……」佐々美のことをきつく睨み付ける。
 そして、その鈴の頭の上に、ぽんぽん、と大きな手が乗せられた。
「よしよし……大丈夫か、鈴?」
「ふんっ。こ、こんなの、全然痛くもかゆくもないわ……」
 どうみても強がりでしかない鈴の返事を聞いて、謙吾はからからと少年のように笑ってみせた。
 佐々美が、鈴と同じように頬をさすりながら、さきほど謙吾とちょっと気安い友人のように話せてしまったことをひそかに喜んでいると、急に謙吾がこちらへと振り向いた。
 二人の視線が交錯し、一瞬硬直。
 そして謙吾が、笑った。
 その、若干申し訳ないような、恥ずかしいような、その中間くらいの微妙な表情で微笑みかける様子を見て、佐々美の胸は――ときめきとはまた違う、一種の親近感のような不思議な気持ちで、いっぱいに満たされるのだった。
 この人は、こんな顔もできるのか。
「いやー……すまん笹瀬川。さっきの言葉な……あれは、なるべく忘れてやってくれ。ついいつもの恭介たちとのノリでしゃべってしまってな。俺は……まぁ、そんなんじゃないぞ。ついちょっと、最近白と赤のコントラストがいいなぁと思っていてな。うんまぁ……それだけなんだ」
 そして、ちょっと真面目そうな顔つきになってそんなことを言うもんだから、佐々美は思わず噴き出しそうになってしまった。
 そんな苦しい言い訳なんか、しなくてもいいのに。
 しかも、それでちゃんと隠し通せているように見えて、実際のところ全部モロバレだ。
 けれど……この月と太陽みたいな人も、こうやって女の子からのイメージなんかを少しは気にするんだと、そう気づけた瞬間――佐々美の胸の中に、ちょっとした安らぎのようなものが芽生えてきて、気持ちが少し楽になって、佐々美はほんのちょっぴり、いたずらっぽく笑って返してみせるのだった。
 端から見ていた鈴が、肘で謙吾の腹をちょんちょんと小突く。
「おい、おまえ」
「ん? なんだ、鈴?」
 自分を見上げている鈴の顔に気づいて、謙吾がそちらに振り向く。
 そして佐々美は、その鈴の表情を見て、ようやっと自分たちの本来の目的を思い出すことができた。
「とーとつな話で悪いが、おまえ、なにかあたしらに隠し事とかしてないか?」
「は?」
 言葉通りの、あまりにも唐突すぎる質問に、謙吾はしばらくぽかん、としてしまった。
 ただその質問の仕方があまりにも気軽なものだったので、謙吾はそれほど深刻な表情にはならずに、少しだけ怪訝そうな様子となって、「隠し事?」ともう一度聞き返した。
「うん、隠し事だ。実際、もう証拠とか全部つかんじゃってるんだけどな」
 佐々美はふと、考える。
 おまえ……さっき、そもそもこの話は本当なのか、とか場を覆すようなこと言ってなかったっけ?
 佐々美はそんな鈴のはったりに、内心ひやひやとしていたけども、むしろそうやって相手にストレートで聞ける鈴の気安さが、このときは少し頼もしくもあった。
「ふむ、隠し事とな……。はて、なにかあっただろうか」
 謙吾は腕を組んで、少し真剣そうに考え込んでみる。
 こんなに親近感を持てるようになった謙吾に、もうすでに恋人がいるだなんて考えたくもない。
 できればそこは、真っ向から否定してほしい。
 けれど、その否定の仕方によっては、自分たちはそこからさらなる闇の底に突き落とされてしまうような気がして、佐々美は、自分の胸の中にどんよりと佇む黒い不安を抑えることができずにいた。
「おまえらの悪事は、すべてお見通しなんだぞ」
 ただ鈴だけは、なにか少年探偵漫画のような熱い展開を期待しているらしく、佐々美はその滑稽さに思わず脱力してしまった。
 これで同時に、胸の不安も消えてくれたらよかったのだけど。
「うーん……もしかして、あれかなぁ……」
 謙吾が宙を仰いで、過去を思い出すようにつぶやいた言葉は、幸か不幸か、実に平然とした口調だった。
 もしかして謙吾は、最初からそのことをみんなに隠す気などさらさら無く、ここで全部打ち明けちゃえ、といった感じにすべてを話してしまうつもりなんだろうか――?
 ドクンドクン、と心臓が車のエンジンのように高鳴り、握った手に力がこもる――。
「すまん……鈴がこの前、大事に取っておいた猫用のお菓子食ったの、俺たちなんだ……」
 ずるっ、と体勢を崩す。
 コンクリートの地面に手をついて、呆れた様子で佐々美が立ち上がったころには、鈴は跳び上がって謙吾の顔に回し蹴りを極めていた。
「こ、こここっ、こんのばっかやろぉ――――っ! 死ねっ! 死んでしまえー!」
 吹っ飛ばされた後も、謙吾は蹴られ続けている。それにしても猫用のお菓子って……人間が食べても大丈夫なんだろうか。
 佐々美は、なんとなく謙吾を守ってやりたい気持ちにもならず、「ごっほ!?」と偉大な画家の名を叫んでいる謙吾のことを黙って見守っていた。
「あれ……っ、あれあれ……一個九百円もしたんだぞ!? コバーンと、ゲイツと、アリストテレスの……誕生日用に合わせて買っといたのに……! 猫たちの仕業だと思ってたら、犯人はお前らだったのか! くうぅぅぅぅ……言えっ、誰が主犯だ!?」
「ぐほっ、ほぐっ……!? い、いや……真人がっ……真人のやつが全部悪いんだ! あいつが、鈴が買ってきたお菓子と気づかずに全袋開けてしまったから、俺と理樹は仕方なく……っ!」
「なんだと!? ってことは、犯人はあの馬鹿かっ!? ちっくしょー、あのやろー……! 絶対に……絶対絶対絶対許さんぞ! 今日中に見つけ出して、濡れ衣を着せられたドルジの恨みを晴らしてやる!」
 いや、それってただ、濡れ衣を着せたあなたのせいじゃないんですの? とは、佐々美も言えなかった。
 ただこちらに飛び火がかかって来ないようにするのに瀬一杯で、心の中では少し、謙吾のお腹のことを心配していた。
 筋肉? あいつなら全然大丈夫だろ。むしろそれより自分の命と財布の心配をするべきだ。
「はぁ……はあっ、はぁ……はあ……」
 鈴は数百メートルを走りきった後のランナーのように肩で激しく息をすると、ぷいっと背を向け、「あたしも、おまえらのお菓子を盗み食いしてやるからなっ!」となんとも可愛いセリフを発し、後で思い出したように、「きっかり二千七百円分だからな!」と付け足すのだった。
 さて、二千七百円分のお菓子とはいったいどれほどのものなんだろう――とひそかに鈴の体重の心配などをしながらも、佐々美はおずおずと、コンクリートの上にぶっ倒れている謙吾のところに歩み寄ってみる。
 少し、情けない。女の子にこうやって倒されてしまうなんて。
 けれど、実際の男の子なんてみんな情けないものか、と佐々美は苦笑し、半分息絶えたままの謙吾の身体を優しく抱き起こしてやる。
「宮沢様、宮沢様。起きてくださいませ」
「ん……ぐむ……」
 少し身体をゆすってやると、謙吾は苦しそうに目をうっすらと開けて、
「うおっと!」
 顔が相当近くなっていたことに驚いたのか、そこから慌てて飛び退いた。
 ああ、少し可愛かった……けど、ちょっと寂しい。
「いやー……はっはっは、すまん! 格好悪いところを見せたな! う、うーむ……しかし、笹瀬川は優しいなぁ……。鈴のやつとは大違いだ!」
「まぁ……そんなこと……」
 褒められて悪い気はしないが、まぁ、これはただのお世辞だろう。
 ちゃんと部屋でシャワーを浴びた後であれば、もっとぎゅ〜っとくっついてやれたのだが、今回ばかりは仕方ない。
 謙吾はそのまま嘘くさい笑い声を上げ続けていると、やがて向けられる鈴の冷ややかな視線に気づき、いっそう上擦った声で笑い出すのだった。
「あの、宮沢様」
 鈴の様子があんなんじゃ仕方ない。
 佐々美はそこから立ち上がって、その場の勢いで、精一杯勇気を出して声をかけてみる。
「ん?」
 謙吾がこっちに振り向いた。
 少し動悸が速くなったが、佐々美は構わず聞いてしまうことにした。
「あのっ……、つかぬ事をお聞きしますけど、ええと……髪が長くて、綺麗で、お淑やかそうな……純和風チックな女の子のことをご存じありませんか?」
 はい? って感じに、謙吾の目が点になった。
 いいかげん、周りの展開についていけなくなったんだろう。
 大まじめに言っている自分も恥ずかしくなってくる。
「私たち……あのっ、その女の方を探しているんですけど……宮沢様のお知り合いに、そんな方がいらっしゃると聞いたもので……それで、」
 説明をつけ加えてやると、謙吾はやっとまじめに考え込んでくれた。
 腕を組んで、目を閉じ、「髪が長い、美人で……お淑やか……純和風……」とぶつぶつつぶやいている。
 さて、謙吾サーチに引っかかる者はいるのだろうか。
 引っかかる者がいなければ、安泰だ。なにも困ることはない。
 だが、いたのだ――引っかかる者が。
「古式、のことか?」
 どくんっ、と胸が反応した。
 鈴もちょっとびっくりしたように、謙吾の目をまじまじと見つめている。
 しかし謙吾は、その名前を出した後、なんでもないようにあっけらかんと笑って、佐々美たちのことを思いっきり脱力させるような言葉を口にするのだった。
「なるほどな……おまえたちは、古式のことを探しているのか! いや、それならばむしろありがたい! ぜひあいつと友達になってやってくれ!」
 は?
 と、佐々美はショックを受ける間もなく、両手を握られ、ぶんぶんと上下に振られる。
 謙吾はそのまま嬉しそうな笑顔で「ありがとう、ありがとう!」とひとしきり礼を述べてくると、
「いやー……鈴と笹瀬川が友達になってくれれば、きっとあいつも元気になるぞ! うむ、助かった! 俺なんかでは話題が合わなくってどうもダメでな、よけい疲れさせてしまうんでちょっと困ってたんだ! ぜひ、明日にでも会いに行ってやってくれ! あ、フルネームは『古式みゆき』で、クラスは2ーBだ。特徴は――」
 と、まるで自分の娘でも紹介するかのように、浮き浮きと説明を続ける謙吾の目前で、佐々美は一人呆然としていた。
 なんぞ、これ。
 どうしてこんなことに――と、それは、天から見守る神様でさえもわかる話ではない。
 ただ謙吾という馬鹿は、元からこういうやつだった、というだけだ。
「それじゃ、よろしく頼むぞ二人とも! 良き報告を待っている!」
 鈴と佐々美は肩をばしんと強く叩かれ、一人馬鹿みたいに高笑いする馬鹿の顔を茫然と見上げることほんの数秒、
『え、えぇぇぇ――――――――――っ!?』
 両者の甲高い声が、静かな夜の空に大きく木霊するのだった。



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