「うっ……くすん、うっ……うぅ……」
 昼休みも終わりに近づき、教室。
 しぶしぶと風紀委員が立ち去った後、佐々美と鈴は、さっきと同じように古式の机の前に佇んでいた。
 古式は、椅子に座ったまま半べそをかき、自分の腕を抱いてか細くふるえている。
 もしかしたら高所恐怖症であったのかもしれない。佐々美は今さらながらに、少しやりすぎだったか、と反省した。
「いったい……な、なにが、したいんですか……っ、あなたたちは……」
 佐々美は若干気の毒になりながらも、凛然とそれに答えてやった。
「べつに? 今さらなにをしたいとか、そんな気はありませんわよ。ねぇ?」
 鈴もそれにうなずいた。
「ああ。あたしも、べつに理由なんて考えてなかった。あえて言うなら……」
 鈴は少しだけ考え込んで、それから古式の頭を見て言った。
「謙吾のことを助けたかった。それだけだ」
 古式は顔をゆっくりと上げ、怪訝そうな目つきになって鈴のことを見つめた。
「意味が……わかりません……」
「ええ、そりゃそうでしょうね。今のあなたなんかじゃ」
 教室にいる生徒たちは、遠巻きになって、こそこそと話をしながら佐々美たちのことを見つめている。
 佐々美は優雅に髪をかき上げ、古式のことを尊大に見下ろした。
「はじめに言っておきますけど、私たちは、あなたが自殺しようとした理由なんてこれっぽっちもわかりませんし、興味もありませんわ。あなたなんかがどうして宮沢さんに懇意にされているのかも、もう正直どうでもいい。……けれどね、」
 そして佐々美は中腰となり、椅子に座ったままの古式に、そっと目線を合わせた。
 古式はごしごしと涙を拭いて、佐々美のことをきつく睨み返す。
 そんな姿が、なんだかとても一生懸命で、少し可愛らしくもあった。
 佐々美はふっと爽やかに微笑んだが、その後一気に目つきを鋭くさせて、固い声になって古式に言葉を投げかける。
「宮沢さんを……馬鹿にするようなことだけは、絶対に許しませんわ」
 刃物のような鋭い視線で、佐々美は古式の瞳を射抜くのだった。
 そう。それが――佐々美の胸に残っている、謎の痛みの正体だった。
 古式は驚愕として、慌てて首を横に振る。
「そ、そんなっ。私、宮沢さんを馬鹿になんかしていません……っ」
「ええ、そうでしょうね。あなたはきっと気づいてなんかいないんでしょう。でも……さっきからあなたの不愉快な言葉の数々に、私はずっとイライラしてたんですのよ。おわかり?」
 目を丸くし、言葉を失っている古式なんかのことは待たず、佐々美はどんどん言葉を続けていく。
「宮沢さんがしつこいって……いったいそれ、どういう意味なんですの? あなた……あの方にどれだけ心配してもらっているか、わかってるんですの? その価値が、きちんとおわかり? あなたのその自分本意な振る舞いのせいで、宮沢さんがどんなに苦しんで悩んで、自分を責めて……その果てに、私たちみたいな他人を頼らざるを得なくなったのか……あなたは、きちんと理解できてるんですの? ねぇ、甘えん坊さん……ちょっと言ってみなさいよ」
 古式は少し気圧されながらも、強気に目をとがらせて、むっとした口調で言った。
「なにも知らないあなたが……そんなこと言うのは、ちょっとおかしいです。こちらの気持ちも……少しは考えてください」
「ええ……そうですわね。あなたも一度は自殺しようと思った人間ですもんね。その傷が治らないうちには、心に余裕ができなくって当然ですわ。でもそんなの、私たちが考えたって仕方ないことじゃありませんの? たいそうな傷を負った身だからって、なにもかもが特別扱いになるとでもお思い? だったら残念でしたわねぇ……宮沢さんはお優しいからいいですけど、私たちはそんなに親切な人間じゃありませんの」
 もともと古式は佐々美の恋敵だ。こちらから優しくサポートしてやる義理なんかない。
 たが、古式にとってその言葉は意外だったのか、信じられない――といった面持ちで佐々美のことを見つめている。
 憎たらしい生意気女め。あの謙吾に愛の告白なんかされやがって――と、一見偉そうに説教かましているように見えて、その中身は結構古式への嫉妬心にあふれている佐々美であった。
 たが、謙吾から言い渡されているミッションをないがしろにするわけにもいかず、最低限言葉は選ぶ。
 古式は少し顔をうつむけて、苛立たしげに言い返した。
「そんなふうに私を説教するために……あなたたちはあんなことをしでかしたんですか。勝手なのは……あなたたちのほうじゃないですか。偉そうなことを言わないでください……。私だって……ちゃんと、」
「あら、そちらこそ勝手に勘違いしないでくれませんこと? べつに、あなたを説教できるだなんて思ってませんわよ? どーせそんなの、自殺を図ったことのない私たちなんかには無理な話でしょう? ただ私が言いたいのは……宮沢さんをあんまりなめるんじゃありません、ということですわよ」
「だから、私はなめてなんか……」
「言葉が悪かったようですわね。つまり……傷ついているのは、あなた一人だけじゃない……ってことですわ」
「あ……」
 古式は、なにかを思い出したように、はっとした。
 目を大きく見開いたまま、微動だにせず、そしてやがて右目の眼帯のほうを痛そうに押さえて、なにかに後悔するような、悔しいような沈痛な表情で、そっと顔を伏せてしまった。
 佐々美はゆっくりと腰を上げて、長い溜息をつく。
 結局――説教みたいな形になってしまった。そんなことする資格なんてないのに。
 ただこちらは、古式の境遇について勝手にうらやんでいるだけだ。
 あんなにも謙吾から愛されているくせに、古式はいったいどこが不満だっていうんだろう。
 せめて古式本人が、謙吾とラブラブなところを見せてくれれば、こっちも思いっきり悩んだり憎んだりできるというのに。
 試合に勝って勝負に負ける――だなんて、格好悪いったらありゃしない。
 佐々美は、今すぐ部屋に帰って不貞寝してやりたい気持ちになった。
「私は……」
 古式は悲しげな面持ちでなにかを言いかけた後、またすぐに顔をうつむけて、口をつぐんでしまう。
 少しの沈黙が流れた後、今度は鈴が口を開く。
「謙吾は、あたしたちの仲間だ」
 なにをいまさら、と佐々美が顔を向けるが、鈴の表情は真剣で、そこにちょっぴりの同情の色が浮かんでいた。
 ようするに、鈴が言いたいのは――、
「だから、謙吾の友達のおまえも、あたしたちの仲間だ」
「……え」
 そんな、優しい言葉。
 そうだ――鈴は、あんなことを謙吾にお願いされなくても、最初から古式と友達になるつもりでいたのだ。
 バトルするんだとかなんとか言っといて、結局は古式のことがずっと気になっていたんだろう。
 一昔前の、周りの人間にやたらと怯えていた、哀れな子猫の面影は、もうどこにも見あたらない。
 この棗鈴が仲間になるというのなら、佐々美も当然、古式の仲間になってやるつもりでいた。
 佐々美と古式の二人っきりであったのならば、恋の悩みなどで色々ぎくしゃくしてしまうだろうが、その間に天真爛漫な鈴が加われば、なるほど――これはなかなか悪くない取り合わせだと思った。
 佐々美と鈴と、古式――。
 いささか癪なのは、変わりはないが。
「あの……」
 古式は、なにか伝えたいことがあるように、鈴と佐々美のことをじっと見上げる。
 べつに、古式のことが嫌いなわけじゃなかった。
 望むのであれば、いつだって――、
「……宮沢さんに……『今まで、ごめんなさい』……って、伝えてくれますか」
 普通の高校生に、なれるから。
 きっと自殺なんかしなくたって済む、恥ずかしいだけじゃない、楽しくって充実した毎日を送れるから。
 古式の傍には、あの謙吾がいるのだ。
 そして鈴もいれば、きっと佐々美もいて、クラスのみんなだってちゃんといる。
 勇気を出して手を伸ばせば、みんなきっと、その手を優しくつかんでくれる。
 癪なのは……変わりはないが。
「ええ、伝えましょう。でもいつか……あなたの声でちゃんと伝えなさい? 約束ですわよ?」
「はい……、約束、します……」
「うん、よろしい」
 佐々美は、これで満足だった。
 やっと周囲の重い空気が晴れたことに、佐々美はほっと安堵の溜息をつく。
 それにしても、妙な出来事だった。
 いったい自分たちは、なにをやっているんだろう。
 あの謙吾の恋人をここまで追いかけてきて、その人に会って、なぜだか胴上げして、説教かまして、最後にはちょっぴり仲良くなってしまって――だなんて、まったくあほらしいとしか言い様がない。
 結局、成功しかけたと思っていた作戦も、最後には手放してしまうし。
 これで佐々美たちは元の振り出しに戻ってしまったどころか、最初のスタートラインから数百メートルもマイナスに下がってしまったような気がする。
 道のりは、まだまだ遠く険しい。
 でも、佐々美はちょっと清々しい気分だった。
「それにしても……あなたって罪な女ですわよねぇ」
 なんていうふうに、ババくさく語ってしまうのも仕方のないこと。
 だが古式は、そこで驚いたように目を丸くして、なにがなんだかわからないといったように、そのまま聞き返すのだった。
「え……なんですか? その、罪な……とは」
「だってそうでしょう? 宮沢さんからあんな素敵な告白をされておいて、なのに最後まで恋人同士じゃないとか言い張るんですもの。罪も罪というか……私の機嫌が悪かったら、もう極刑ものの大罪ですわよ」
 現に、こっそり女子ソフト部の地獄体操を数百回やらせようとか画策してたくらいだ。
 こうやって無事に済んだ未来を、古式は神様にでも深く感謝しておくべきだろう。
 佐々美は我知り顔でうんうんとうなずく。
 けれど――なぜか古式は、一向に怪訝そうな表情を消さないままであった。
 不思議そうに眉をひそめ、「愛の告白……?」と考え込んでしまった。
 これには佐々美も少々呆れてしまい、失笑しながらも再び教えてやることにした。
「もう、隠さなくたっていいんですわよ。あなたが夕焼けの校舎裏で、宮沢さんに告白された例の女の子なんでしょう? 怒らないから、話してみなさい」
 ここで「あ、やっぱり……ばれちゃいました?」などと、舌をぺろっと出して恥ずかしそうに笑うのが、佐々美の描いていた未来の予想図だった。
 だが古式は、依然として首を横に振る。
「いいえ……。ですから、それは私などではありません。さきほどもそう言ったはずです」
「……。ちょっとあなた……宮沢さんを馬鹿にするなって、私今言ったところですわよ? 聞いてなかったんですの?」
「いいえ、ちゃんと聞いていました。だから……ええと、それは違うんです」
「はぁ? なにが違うって言うんですのよ?」
 また頭に血がのぼってきた。いったいどこまで誤魔化すつもりだ、この女は。本当に地獄体操をやらせてやろうか。
 そんなふうに例の悪魔計画が再び始動する中、古式はちょっぴり申し訳なさそう目を細めて、ゆっくりと口を動かす。
「ですから……それ、本当に私じゃないんです。別の女の子なんです」
「へっ?」
 鈴が素っ頓狂な声を上げる。
 佐々美は、口を開いたまま呆然と固まってしまった。
「あの……恐らく、まだ勘違いなされてるんでしょうけど、本当に違うんです。私、そんなこと宮沢さんに言われてません」
「え……ちょ、ちょっと待ちなさいよ。私、怒らないって言ったでしょう? あなたとは良きライバルでいたいと思っておりますけど、白状したらすぐにどうにかしちゃおうとか、そんなことは全然思ってませんのよ?」
「え、ええっと……ライバルって……。ちょっと……話が飛びすぎじゃないでしょうか」
 なぜだかちょっぴり顔を赤くしている。
「あの、もしよろしければ……あなた方が聞いたという噂の内容を、私に詳しく話してくれませんか?」
 すると、鈴は佐々美のほうを指さし、古式の視線がこちらへと向く。
 いったい、どういうことだ。
 佐々美はさっぱり意味がわからずに、しどろもどろになりながらも、噂の内容をそのまま古式に説明してやった。
「……ああ、やっぱり……」
 すると古式は、がくっと肩を落としてしまった。
 なんだか佐々美は、ひどく自分が悪いことをしてしまった気になって、あたふたと困惑する。
「ええと……それ、半分くらい間違ってます。誰もいない放課後なんかではありません。まだ何人かの生徒が、校内に残っていたと思います。きっとその後輩という方が、興奮して情報を書き換えてしまったのでしょう。第一……」
「ちょ、ちょっとお待ちなさい! それってことは、やっぱりあなたがその告白を受けた女子ってことになるんじゃありませんの!?」
 本人以外の人間が、そんな詳しい場所の情報を知るわけがない。
 噂の内容をこんなに自信を持って修正できるなんて、絶対に普通じゃあり得ない話だ。
 ならばその女子は、やっぱり古式みゆき本人――という説明のほうが、もっともしっくりくる。
 告白のセリフだけが間違っていた――ということになれば、佐々美が一番望む結果となるのだが、それでも古式は首を横に振るのだった。
「ですから……それは間違っています。第一……見たのはその後輩なんかではありません」
「じゃ、じゃあ誰だって言うんです!? その光景を目撃したって人間は!」
「それは、私です」
「え……って……え、えぇぇぇぇ――――――――――っ!?」
 衝撃の新事実。
 鈴も佐々美もびっくり仰天し、そろってグリコポーズを取った。
 なんと、実際に現場を目撃していたのは、ここにいる古式みゆき本人だったのだ。
 しかし、だとしたらなぜ――その後輩まで同じ情報を共有していたのか。
 その説明がつかない。
 ならば、やっぱりそいつも一緒にどっかで見ていたんじゃないか――と佐々美は一瞬考えたが、けれど、もう次の瞬間には、もっとそれよりも現実らしい解答が頭の端っこに浮かびつつあった。
 そう、それはすなわち――、
「恐らく……その方は、私から聞いた話をそのまま現実に自分が見た話として、置き換えてしまったのでしょう。私と宮沢さんを邪推する方々に対しての、体のいい追い払い文句だと思って使っていたのですが……ちょっと甘く見ていました」
 そういうことだった。
 佐々美はやっと、納得がいく。
 古式は、佐々美たちのような連中を追い払うために、実際に自分が目撃した情報を話してやっていたのだ。
 すなわち、自分なんかよりももっと怪しい女子がいるのだと。
 だから、あなたたちの考えていることは、全部ただの妄想にすぎないのだと。
 それを証明するために。
 だが、そんな連中が全員、真面目に話を聞いていたわけではなかった。
 こっそりそんな連中に、あの人騒がせな後輩が混じっていたのだ――。
「その後輩という方が……いったいどんな方だったのかはわかりません。私のところへは、一時期本当に色んな人がやって来ていたので……」
 古式は申し訳なさそうに佐々美たちに頭を下げ、それから「でも……」とつぶやいて続ける。
「その方が言っていたお話は……大筋においてはほとんど当たっていると思います。ええと……お話ししましょうか……? 私の話も」
「お、お願いしますっ! ぜひ、教えてくださいですわ!」
「あ、はい……わかりました」
 身を乗り出してくる佐々美に、古式は神妙にうなずき、口に手を添えながら、「あまり大層なものではないですが……」と前置きをした。
「ええと、まず夕焼けの校舎裏というくだりですけど……それは本当に、そのまま当たっています。部活動が休みになった日でしたから、その頃にはほとんどの生徒が帰宅していました。けれど、校内にはまだちらほらと生徒が残っていたんです。目撃したのは大体、四時ごろから五時ごろの間だったと思います。私はそのとき……あまり寮に帰る気になれなくて、一人でぶらぶらと学校の敷地を歩いていたんです。そのときに、見ました」
 佐々美はごくり、と息を飲む。
 古式じゃないって言うんなら、いったいそいつは何者なんだろう。
 まさしく謎の女と言える――だが、絶対に見つけ出してやる。そして惚れ薬をゲットして――。
「まず、宮沢さんの声が聞こえました……それで……ええと、お恥ずかしいんですけど……私はそのときどんな知り合いにも会いたくなくって、すぐに物陰に隠れてしまったんです。でも、やっぱり後から気になってしまって……物陰から覗いてみたら、女の人と一緒に歩いているのが見えました。その人は、長い黒髪の、とても顔が綺麗な人で……宮沢さんとはすごく仲が良さそうでした。すらっとしていて、ちょっと恥ずかしそうにスカートを押さえていて……ああなんか、お淑やかな人だなって思いまして……しばらく私はそれを眺めていました」
 すらっとしていて、恥ずかしそう――なるほど、確かにちょっとお淑やかなお嬢様って感じだ。
 まったくムカムカする。それなら自分も似たようなもんだと思うのに、どこか究極的に違うとわかってしまうあたりが、無性に佐々美をイライラとさせた。
 古式は少し悲しそうに目を伏せて、続きを語っていく。
「えっと……背は、普通の子より少し高めで……体はちょっと痩せていたと思います。ほっそりとした体つきで……まさに大和撫子、といった感じです。どこかで見たような顔だとは思っていたんですけど……名前は、ちょっと思い出せませんでした……。とにかく、とてもお似合いで、素敵な二人だったと思います……」
 あれ。
 古式の声には、だんだんと涙がにじみ始め――、それからつらそうに眉を下げて、顔を伏せてしまう。
 なんだか、ちょっと不穏な空気。
 これはちょっと――ちょっと、なんだろう。
「それで……その人の制服のリボンは、ピンクでしたから……多分、私たちと同じ学年なんだと思います。それで……その……それを見て私……なんだか、ここにいてはいけない気になって、すぐに帰ろうとしたんですけど……。でも、帰りたくっても、今さらそこから出ていくこともできなくて……。えっと……そこでずっと、話を聞いてるしかなかったんです……。そうしたら宮沢さん……その人に向かって、『そんなこと気にしなくていい』とか……『俺が一生守ってやる』とか……そんなことを、ちょっと真剣そうに、笑って話していたんです……。……その女の人も、照れながら『謙吾の馬鹿』って、肩を小突いたりしていて……。ちょっと……なんか……信じられませんでした……。それで……ああ、やっぱり……私って、馬鹿……だったんだな、って……、そう思って……それで……っ……。……ええっと……っ……。……それで……っ……ええっ、……と……っ」
 ああ、もうだめだ――。
 佐々美はいいかげん我慢できなくなり、ぽん――と古式の頭の上に、手を乗せてやる。
 もう話さなくていい――と心の中で念じながら、そのまま、ぽんぽんと頭を軽くなでてやること、ほんの数秒。
 静かに、垂れ下がった紫紺の髪の奥から、ぽつり、と小さな雫が落ちた。
 佐々美は、ゆっくりと目を細めていく。
 ああ――やっぱりこの子も、謙吾のことが好きだったんだ。
 だから、そんな光景を見て、ショックを受けてしまって、謙吾のことを邪険に扱おうとして、なにも気にしていないふうを装って、それでなんとか精神の平静を保とうとした。
 本当に、仕方のない子だ。
 でも、だとしたら――ちょっと申し訳ないことをしてしまっただろうか。
 でも、泣きたいのはこっちだって一緒なのだ。先に泣かれてしまった罪悪感で、涙なんかこれっぽっちも出てこない。
 もしかしたら、本当に、いい友達になれるかもしれない。
「ほら、もういいですから。これをお使いなさい」
 ポケットからハンカチを取りだし、古式に差し出してやる。
 でも、古式は首を横に振った。
「いり、ません……」
「そんなこと言わなくていいんです。あなた、泣いてるじゃないの」
「……泣いてなんか、いません……」
 ああ、もうめんどくさい。
 イラっときた佐々美は、ハンカチを両手に持ち、大きく広げて、
「うぅ……ふぎゅんっ」
 目に無理やり押し当ててやった。
 病気の目からも、涙って出るもんなんだろうかと思いながら、佐々美は眼帯の奥にもぎゅっぎゅとハンカチを入れて、拭いていってやる。
「な……なにしゅるんでふか……っ」
 ハンカチを手に押さえながら、古式はとがめるように顔を上げる。
 なにも見えてないくせに――なんか小動物みたいで面白かった。
「なにするもこうするもありません。目の前で突然ぼろぼろと涙をこぼされるほど、人が困ることってないんですのよ。ほら、終わったらとっととそれ返しなさい」
「えぐ……」
 古式は、ゆっくりと目の涙をふき取り、鼻をすすりながら、丁寧にハンカチをたたんで、佐々美にそっと返した。
 ずれた眼帯の位置を、きゅっと直す。
 目はまだ少し赤いままだったが、なんとなく、凛然とした雰囲気に戻っていた。
 佐々美はハンカチをポケットにしまい、神妙な顔つきになって、古式のことをじっと見つめた。
「お話……ありがとうございましたわ。よく納得がいきました。それにしても……本当に、あなたじゃなかったんですのね」
「はい……。宮沢さんの恋人は、私なんかではありません。別のところにいます……」
 まるで敵を指すみたいな言い草だが、古式と佐々美にとっては、あいつは敵も同然だ。
 佐々美は腕を組んで考え込む。
 それにしても――謙吾も謙吾でひどい。あれだけ古式のことを心配する健気な様子を見せておいて、自分は一人でよその女といちゃいちゃとしているなんて。
 さすがに想い人といえども、ちょっとした義憤に駆られてしまう。偽善者もいいとこだ。
 今度こそ、直接本人に問いただしてみよう――と佐々美は心の中で決心し、鈴のほうを振り返ってみる。
 そして、その顔を見て、ぎょっとした。
 さっきからずっと静かに黙っているので、なんだか不思議に思っていたら――、
「……」
 顔を青くして、固まっていた。
 口は横一文字に結ばれ、目は大きく見張ったまま、硬直している。
 さっきの涙のシーンなど目に入っていなかったというような体で、鈴は虚空を見つめ、冷や汗をたらし続けている。
 なにか、今の話で引っかかるところでもあったんだろうか。ものすごいスピードで頭が回転していて、逆に混乱気味になっている様子が見て取れる。
 目を覚まさせてやるために、佐々美はぺちぺちとほっぺを叩いてやる。
 まだ起きないので、今度はちょっと強めのビンタだ。
 まだ起きない。ならば次は――、
「起きとるわ、ぼけっ!」
 クロスカウンター気味のパンチをもらった。
 佐々美が仕返しをしようとする前に、鈴は焦燥に駆られるようにつかつかと前へ歩いていき、古式に詰め寄った。
「すまん……っ、もーしわけないっ! ちょっといいか、みぬきさん!」
「えっと……みゆきです……」
「ごめん、みゆきさん」
 鈴は時間が惜しいとばかりに、おもむろにポッケから携帯電話を取りだし、苦々しい顔で画面を操作していく。
 何事? と佐々美がその様子をじっと見つめていると、やがてその頭の中に一つ、ある可能性が思い浮かんだ。
 鈴は――まさか、今の話で、例の女の正体が誰だかわかったんじゃないだろうか?
 ならばそれは、鈴の親友の来ヶ谷唯湖――なんてことは、絶対にあり得ないでほしい――。佐々美は固唾を飲んで、その光景を見守った。
「あった……」
 鈴はそう呟くと、すごく嫌そうな顔になりつつも、古式にその画面を見せた。
「もしかして、その女って、こんなやつじゃないのか?」
 古式は目を細めてその画面を凝視し、少し経ってから、驚いたように目をむいた。
「ま、間違いないです……っ! 確かに、この人でした! 髪はもっとこれより長かったと思いますけど、顔は……確かに……!」
「えっ……ちょ、ちょっとっ!? 私にもお見せなさい!」
 古式の手から携帯を奪い取り、画面を食い入るように見つめてみる。
 そして、
「なっ――!?」
 驚愕。
 そこには、見たこともない美人が映っていた。
 髪は、予想していたものよりだいぶ短かったが、その容貌は佐々美の想像していた以上に可憐で美しく、どこか涼しげな古い日本女性を連想させた。
 かといって可愛らしさがまったくないかと言えばそうではなく、どこか男女問わず人を無差別に惹き付けるような、純真でか弱い性質を持たせるような容貌であった。
 これは、悔しすぎる。
 佐々美だって泣きたくなってくる。
 でも、この顔――ちょっと、どこかで見たことがあるような――。
「ちょっと棗さん、これっていったいどういうこと――……って、ちょっと!?」
 ずるずるっ。
 見ると、鈴は思いっきり脱力したように古式の机にもたれ掛かり、口から白い魂を吐いていた。
 成仏しかかっている魂を止めるため、佐々美は慌てて鈴に駆け寄り、その小さい体を揺さぶる。
「ど、どうしたんですの棗さん!? 気をしっかり!?」
 覇気などまるでない。
 ぼんやりとした顔で、鈴は佐々美に答えた。
「あぁ……なんか、もう全部、あほらしくなった……」
「あほらしくなんかありませんわ! とうとうやつの正体を突き止めたんですのよ! ほら、お立ちなさい! 一回でもそいつに会って文句を言ってやらないと、私たちの無念が晴らせませんわ!」
「うみゅぅ……」
 腕をつかんで、無理やり立たせてやる。
 なんて顔だ――こんなニートみたいな無気力な顔は今まで見たことがない。せっかくの美貌が台無しだ。三十万使って買った宝くじが全部外れたら、きっとこんな顔になるんだろうか。
 と、そこで、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。
 ああ、なんていうこと。これからその女のところへ行こうと思ってたのに、なんて運の悪さ。
 佐々美はもう一度鈴にビンタをし、起こしてやった。
「せめて、そいつの名前とクラスだけでも言いなさい! 授業が終わったら速攻で会いに行ってやりますわ!」
「うみゅ……い、いや、待て。あたしも行く……。ってか、あたしがいないと、おまえはそいつに会えないと思う」
「はぁ!? どういうことですの?」
「部活終わった後、また集まるぞ……そのときに、そいつに会いに行く」
 そう言い残して鈴は、佐々美の手からするするとすり抜け、教室の外へと歩いていってしまう。
 慌てて追いかけようとしたが、佐々美は古式への挨拶がまだ済んでいないに気づき、扉のところで立ち止まって、振り返る。
 だが、
「……あの、古式さん……大丈夫?」
 周りにいた生徒が、集まってきていた。
「さっきは助けてあげられなくって、ごめんなさい……。あの二人……ちょっと怖くって」
 あれは確か、佐々美がさっき脅してやった女子だった。
 その友人らしい何名かが、おずおずと古式の席の周りに集まってきている。
「えっと、あの……皆さん……」
「さっき、古式さん泣いてたけど、もしかしてあの二人になにか酷いこと言われたの? ごめんね……私、なにも言えなくって……」
「笹瀬川のやつ、古式さんのことなんかなにも知らないくせに、偉そうだよね。あ、でも……私もさっきは本当にごめんねー。ちゃんと最初っから声をかけてやればよかった」
 そして、その次にも、またその次にも、わらわらと生徒が寄ってくる。
 古式の顔は、その陰にすっぽりと埋もれてしまって、見えなくなってしまった。
 ただ、佐々美たちのことを悪く言おうとする人間に対して、時折、弱々しく弁護する声なんかが聞こえてきた。
 ちょっと恥ずかしがっていた男子たちなんかも、少しずつそちらに寄っていく。
 みんな、今の古式と話がしてみたいようだ。
 そりゃそうだろう。昼休みの平和な教室を震撼させた、二大台風の犠牲者なのだから。
 野次馬根性から、話しかけてくる生徒も少なくない。
 佐々美は、そこでそっと後ろを振り返り、廊下の先を見つめてみた。
 そこには、ふらふらとした足取りで、危なげに教室に戻っていく鈴の姿が見える。
 佐々美は、ふっと微笑んで、
「……帰りましょう」
 挨拶は、また今度にするのだった。
 普通の高校生になれる日は、きっともうすぐだろう。


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